されどロックな日々 - ANNEX

「されどロックな日々」、別館 (ANNEX) でございます (^^)

紙に印刷された、縦書きの日本語はイイの話。と、伊丹十三監督の話

先日、5年ぶりに本なんか読んだものだから、知恵熱でも出たのかww、なぜか活字への渇望感が噴出している今日この頃。

で。

本棚の奥で眠っていた2冊を取り出し、がつがつと読んでみた。

「お葬式日記」「マルサの女日記」である。
長年大ファンをやっている、伊丹十三監督の本。

その昔、松山まで行って、伊丹十三記念館見てきたし、一六タルトも食べてきた(遠くを見る)。

それにしても。

やはり、日本語は縦書きで読むのが良い。
しかも紙にしっかり印刷されている字は、こちらへの訴求力が圧倒的に高い。
本来日本語は縦書き言語なわけだし。
漢数字など、横書きで見ると『一』(いち)なのか『ー』(長音)なのか、わからないときがあってヤなのである。

伊丹監督による元の原稿は、万年筆など筆記具を使って、一文字一文字、紙に手書きされているはず。

しかるに、昨今の日本語の主流は:
・横書き
・PCやスマホなどのディスプレイに表示(紙を見るより圧倒的に多いと思う)
・元となる原稿は、パソコンのキーボードやスマホのタッチパネルで書かれている

別にこれが悪いと言っているわけでは、毛頭ない。

僕のこの雑文も、NECのPCでMSワードを使い、キーボードで打っているわけでw

時代の流れがデジタルなのであるし、ビジネスの現場などでは何よりも便利なのであるから、アナログが徐々に駆逐されて行っても致し方ないのである。
もちろん、新聞や雑誌はまだまだ縦書きが主流だし、しっかり紙に印刷されてもいる。

ただ……。

あくまでも個人的感覚ではあるが、やはり、ひと時代前の本、書籍は密度が違うのである。
うまく形容できないのだけれども、要するに
「書かれている内容が、脳のシワシワにじんわりと染み込んでくる感じ」
がするのである。

一文字一文字が、丁寧に縦書きの原稿用紙のマス目を埋める作業によって書かれた文章。
縦書きで紙にきれいに印刷された文章。

そういう日本語のほうが、気持ちというか気合いが違うし、何よりもこちらに伝わって来る迫力が圧倒的に異なるのである。

一行当たりに込められた熱量が根本的に違う。
従って、ページを開いたときに、パッと伝わって来るパワーが違うのだ。
印刷されている活字自体にも、人に何かを感じさせる、また何かを考えさせる力があるような。
多分に気分の問題という気もするが、そんな感覚を覚えることは確かだ。

こういう違いというのは、超ロングタームで考えると、いずれ日本語そのものの構造変化をもたらすような気がする。というか、地殻変動はすでにもう始まっているのかもしれない。

言葉が変化して行くということは、つまりこれまた長いスパンで考えれば、日本人によるモノゴトの思考方法そのものが変化して行くような気もする。

それが良いことなのか、そうでないのか、僕には到底わからないけれども。

ところで。

思考方法といえば。

この2冊を読んでいると、伊丹十三という人の思考回路がいかに常人と異なるか、手に取るように良くわかる。

例えば僕が、
Aという事象を見て、一定の時間内に
「A→B→C」
という順で何かを考えるとする。

伊丹監督なら、Aという出発点こそ同じとしても
「A→X→Q→Cダッシュ→M→Z」
例えば、こんな順になるような気がする。
要するに通過する回路が違えば、考えるスピードも違う。
何よりもAを見た直後の着眼点が全然違うから、当然着地点も全然違うという。
やはり天才なのである。

それにしても。

「お葬式」の葬儀屋といい、「マルサの女」の宝くじの男といい、伊丹映画はワキに何気なく渋くて気になる人が配置されていたりする。
あのウサン臭さは実に秀逸。
カッコ良くて味わい深いのである。

あ、あとはやっぱり「お葬式」の電報配達役と助監督役の人の件w

なんて書いてたら、伊丹監督のDVDボックスセットを開けたくなってきた。

まずはやっぱり足芸のチャプターまで飛ばしたい。
名シーンの誉れ高き、あの。